命にあとおしされて

命にあとおしされて

「ママ、道、間違えていない?」

冬の寒さを感じ始めた11月はじめのことだった。自信のなさ、不安に押しつぶされそうになりながら、私はハンドルを握っていた。あまりにも考えすぎていたのだろう、目的地とはまったく違う道を走っていたのを、小学生の娘が気がついた。

「ごめんごめん!ママ、道間違えちゃったね!」
夕日がかった寒空が、心を更に寂しくした。

私の仕事は、フリーランスのPRプランナーとして、お店や企業の広報活動をサポートすることだ。熱く、躍動あるお客様のおかげで、がむしゃらになりながら私も楽しい活動をさせていただいてる。起業して3年。自分自身と向き合う心のゆとりを持てるようになってきた。そのすきまに、自分自身の価値を問う、自分を否定するスペースが生まれてしまった。

スマホを開けば、誰でもSNSでPRが出来る時代、誰でも広告がうてる時代だ。私よりもはるかに使いこなしている人は山ほどいる。PRプランナーとして、お客様のためになるスキルと経験を自分は本当に持っているのか。そんな問いを、投げかけ続けていたのだ。こうなったら、しばらく這い上がれないのを私は知っていたし、自分で打破しなくては光は見えてこないことも知っていた。

そして、自分の活動拠点である豊田市で、自分にしかできない何かを、見つけたくなっていった。

訪れたのは、豊田市稲武地区の古橋懐古館。かつて豊田市で盛んに行われていた養蚕が、今も伝統的に行われている場所だ。

古橋懐古館の古橋さんにたくさんのお話を伺った。稲武産の生糸は、伊勢神宮の神御衣祭(かんみそさい)、熱田神宮の御衣祭(おんぞさい)に毎年献納されていること。また、天皇即位後に初めて行われる大嘗祭で、古くから繒服(にぎたえ)という絹織物として皇室に調進され、令和の大嘗祭でも上納されたということ。稲武の養蚕は、「伝統」という一言では語り尽くせない、深く壮大なバッググラウンドがあることを知った。

古橋さんが、繭袋から一粒の繭を取り出し、差し出してくれた。それが、私が人生で初めて繭を手にした瞬間だった。手の平で繭がコロンとした時、何か硬いものが繭の中で転がったのを感じた。

「あれ?」

「この繭の中にはお蚕さんがいるんですよ。お蚕さんは、蛹になるときに、糸を吐いて繭を作り自分を守るんです。だから、繭の中にはお蚕さんがいて、もう少ししたらその繭を破って成虫が出てきます。」

「えっ!」
私は思わずその繭を古橋さんに手渡した。

「冗談ですよ。でも、お蚕さんがその中にいるのは本当です。ただ、死んでしまっているから、羽化することはないですよ。」

私は、お蚕さんのことを教えていただいた。古くからの品種改良によって、羽化しても口がなく食べることもできず、体が重く翔ぶこともできない。成虫として生きていくことができず、その短い一生を終えることを知った。そして、蚕糸業では、「殺蛹(さつよう)」という工程で、繭に熱風を通すことで命をいただき、その繭から糸を繰ることも知った。着物一反には、約3,000頭の繭が使われていることも知った。

「シルクを纏うということは、尊さと儚さを纏うということなんですね。」
そう古橋さんは語った。

稲武からの帰りの車、 私はとても切ない気持ちになった。私達は、高価で美しいシルクではなく、「命」を纏っていたのだ。目には見えなかった尊く儚い真実が、私の心を揺さぶった。くよくよしていた私に、勇気さえくれた。

目に見えることばかりではなく、目に見えないものを大切にしたいと思った。伝えたいと思った。私がお蚕さんの命にあとおしされたように、お蚕さんの力を借りて私も誰かを応援できるようなことをしたいと思った。

この日見た夕日は、あの時と同じようにやっぱり寂しかった。でも、とてもあたたかく、キラキラと光っていた。

それが、この物語のはじまりだ。

(執筆:蓮尾智紗子)